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グルメ紹介

京都の錦水亭さんに行ってきました。
京都は長岡京市にあります。
たけのこ会席で有名です!
メニューは以下の竹コースを注文しました。

メニュー


竹の子おいしかったです!これが「じきたけ」です。

錦水亭1


次に「焼物」です(珍しかったです)。

錦水亭2


鯉あめ煮も最高です!

錦水亭3


窓から見える風景ものどかです。

錦水亭さんのHPです。
http://www.kinsuitei.co.jp/index2.html

ざっくばらんな記事でした!

大島HPはこちらです!
http://www.ooshima.me
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思い出(10)

思い出-1

今回は「思い出」の最終回として協力会社との関係についてお話したいと思います。
以前は、大家(おおや)と店子(たなこ)の関係は親子と同じで、なんでもザックバランに、腹蔵のない付き合いが普通であった。親会社と協力会社も親子と同じ異体同心、運命共同体で売れる商品つくりに協力し合うのが当然のモラルとされていた。
しかしその商品が売れ出し儲かってくると、下請け(つくる方)は親会社(売る方)が楽して儲けていると思い、売る方はつくる方が儲けすぎていると思いはじめる。
 この思いが高じてくると、下請けが親会社の模造品を売り出し、親会社は自社工場でつくり出す。これは自由競争としてのやむを得ない弊害の一面かもしれません。
これに反して、オスピナレーターR-302は昭和52年発売以来S社さんとの協力関係が崩れることなく続いた、稀有の快挙と言えると思います。

これほどの長い年月、いろんなトラブルもありましたが、ともかくも協力・友好関係が持続できた要因を総括しますと次のようなことが考えられます。

①契約条項、特許関係に弁護士が立会い契約したことにより、将来起こり得るトラブルを未然にふせぐ条文であったこと。
②台数、売り上げ、利益とも両者にとって、ほぼ満足すべき状態が続いたこと。
③開発の優秀な技術者の三尾野さんを大島の工場長に招聘し、R-302の初期不良を解決、改善したのでS社に喜ばれた。
④S社にR-302を生産委任できるので、大島は三尾野さんを中心に上級機種の開発に専念できたこと。
⑤財務のプロの大山さんを銀行から召集し脆弱だった財務基盤が業界指折りの優良会社になったためS社も安心して取引できた。

                         思い出-2


(注釈)
当社企業理念は、「本有常住」といいます。
これは「世界に多くの企業がある中、大島で一緒に働くこと・大島の商品を使っていただけることが決して偶然でなく、その縁を大事にし、一緒に働いて良かった、また商品を使って良かった。生まれ変わってもまた一緒に働きたい、また商品を使いたい、と思える会社に。」
また「永遠に存続し皆が誇れる会社、また皆に喜ばれる会社に。」
との意味が込められています。
長らくお付き合いいただきありがとうございました。弊社の歴史の一端をお知りいただければ幸いです。
また今後とも「大島製作所」を何卒宜しくお願い申し上げます。

http://www.ooshima.me


思い出(9)

思い出-1

今回は、「がま式治療器」についてお話したいと思います。
昭和40年後半に、中国が麻酔薬を使用しない「ハリ麻酔」を開発しました。それが日本、欧州の医学界に紹介され、東洋医学の一大ブームが起こりました。日本で東洋医学の先鞭をつけたのは、中谷博士の良導絡研究所です。

 人の体には350ケ以上の「つぼ」があります。「つぼ」では、皮膚の電気抵抗(インピーダンス)が「つぼ」の周りの皮膚抵抗より低い、という特性があります。その「つぼ」に「はり」を打ち、電極を通して身体内に微弱な直流電流を流すだけで、疾患の「痛み」がウソのように軽減しました。
手軽で、安価で神秘的なこの「ハリ麻酔器」は、多くの西洋医の賛同を得て全国的に広がりました。しかし、はり通電は「はり」を身体内に打つため医師法により、使用できるのは医師と鍼灸師に限られました。
そこで「はり電極」にかわるものとして考案されたのが「SSP電極」と「がま式電極」です。
「がま電極」と治療法の詳細は、「誰にもできるツボ療法」(新毘出版1978年発行)を参照してください。

中国から始まった「ハリ麻酔」は、日本では良導絡電極(良導絡研究所)、SSP電極(日本メディックス)、がま式電極(大島)の3社が、それぞれ開発・改良・競合しながら大きく発展し、大島のOTG-4型は当時飛ぶように売れました。1週間50台、月産250~300台、毎晩朝方までの徹夜仕事でした。
やがて3社競合も「がま先生」の早死を境に大島が市場から撤退し始めました。

ここで反省点として総括しますと、次のようなことが考えられます。
①当時大島はオスピナに営業全員が集中し、OTG-4まで手が回らなかった。
②教祖さまの「がま先生」が、後継者の育つ前に早死された。
③メディックス会のような代理店の展開をつくれなかった。
④独自の販売戦略(展示講習会、PR方法など)をやらなかった。

結論としては、「どんなに良い商品でもほったらかしでは売れるものではない。」
「商品は子供と同じです。生みの親より育ての親がより大事。」ということです。


OTG-1.jpg

                      
思い出-2

(注釈)
「がま式治療器」を共同開発しました「がま先生」の早死に、心よりお悔やみ申し上げます。「がま式治療器」は現在ありませんが、低周波のラインアップも充実し、現在さまざまご紹介させていただいております。

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思い出(8)

思い出-1

オスピナレーターの量産は、高速道路高架下のチョーク図面から始まり、山口漁船修理場。次に今の大阪工場の右隣奥に借地でのプレハブ工場、そして昭和55年8月の大阪工場建設と続きました。大島、マクター、大日のローラー3強の熾烈なシェア争いと、ローラーが飛ぶように売れました。

 今回は、今後の参考にその当時の思い出をお話したいと思います。大島のローラーは回転式ですが、当時日本では、ローラーで背中をマッサージする背骨矯正器が家庭用でありました。
マクターはその特許を買い上げ、「マクター」の名で売り出しました。最初「マクター」を製造していたのは大日ですが、「マクター」が自社工場で生産することに伴い、大日も「ヘルサー」名で製造販売を始めました。
両社とも平面上に並べたローラーの上を、「機械が動くか、人体が動くか、」の違いが実用新案です。いずれもローラーの回転はありません。

 3社ともローラーの開発については、
①ヒントはひょんなきっかけで、見逃してもおかしくないものであった。
②機器はシンプルであった。

 ではなぜローラーがあれほど売れたのでしょうか?
答えは次のような点にあります。
①マッサージ機は座椅子型が主流でベッド型がなかった。
②ローラーが目新しく、他の医療機器や医療機関との差別化商品として先生方の購買意識を刺激した。
③3社がそれぞれの機器の特長と宣伝で、市場での販売の相乗効果を高めた。
④二次店の業者がローラーを意欲的に販売した。


WAVE-Ⅱ

                         思い出-2

(注釈)
大島製作所のローラーはその後さまざま進化を遂げ、現在「インペリアル シンフォニー」・「オスピナレーター フロンティア」・「オスピナレーター R-303 WAVE-Ⅱ」のラインアップで、多くのお客様に可愛がっていただいております。

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思い出(7)

思い出-1

今回は、オスピナレーターR-302試作機の出来上がるまで、をお話したいと思います。
オスピナ原型ともいうべきアメリカ製ローラーマッサージ器は、ローラーを回転させて脊柱近傍全体を往復マッサージするだけの、今から思えばしごく簡単なものですが、当時の日本では見たことも、聞いたこともない画期的なすばらしい機器でした。
試乗した瞬間、「これは売れる!」と、私も長谷川さんも感動しました。
製造するに当たっては、最初に米国のローラーマッサージ関係の特許調査を確かめなくてはなりません。しかし、それを調査する人やお金、また時間が当時の大島にはありませんでした。そのためには、新特許を日本で取得するしかない。
 その方法として、①上半身と下半身に回転三叉ローラーをいれる、②温熱をいれる、③マッサージ強弱に電動式をいれる、④二組の大小ローラーを搭載した台車をいかに人体にマッチして走行させるか、ということでした。そして、人体工学に基づいて日本人の前わん・後わんを計測し、完成したのが波型走行の特許です(※こうして無事特許を取得することが出来ました)。
つぎに試作する工場と人の問題ですが、中田さん(※当時社員:当社OB)の友達に建築現場のガス溶接工がいるというので、その人と高速道路高架下の道路にチョークで図面を書いて打ち合わせ、ベッド型外枠を外注しました。三叉ローラー、その他の部品は自動車メーカーの再々下請けに依頼して、何とか第一号試作機が完成しました。
デモ試作機の、ユーザーの評判は上々でした。「ヒットするのは間違いない」と試作量産する工場を探していたところ、山口さん(※当時社員:当社OB)の叔父さんが漁船の修理をしており、手隙のときがあるというのでお願いしました。前田(※当時社員:当社OB)・南場さんの二人が山口さんの家に寝泊りして、土日無しで、毎晩10時過ぎまで働くという過酷な労働条件でした。
めしを食うひまも惜しみ、人体の限りを尽くし、3人で月産75台の大台にまで漕ぎ着けました。

オスピナレーター R-302


                    思い出-2

(注釈)
大島会長が懐かしく語る「オスピナレーター」の思い出では、道路にチョークで図面を書いて打ち合わせしたことが特に印象に残っているようです。また船会社で作った関係か、初期ロットは大変重たい機器になったようです。当社の大きな柱である「ベッド型マッサージ器」の原点はここから始まりました。

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思い出(6)

思い出-1

前回、お話しをしたように飛ぶように売れていたバイターですが、発売後6~7年頃から売上にかげりがみえ出しました。理由として、次のことが考えられます。
①医療業界、特に当時の接骨院業界は数が少なく、買うべき人が(商品を)買ってしまうと、底割れして後が続かない。
②接骨の先生方は、患者さんに医療機器を売ることに抵抗がある。
③理髪店業界から爆発的に家庭に売れ出したバイターだが、医家向けとしての希少価値がなくなったため医療業界で売れなくなってきた。
④安売りの類似品が出回りだした。

 昭和50年のちょうどその頃、耳よりの話が飛び込んできました。アメリカ留学でカイロプラクティクの勉強をしたS先生が、ローラーマッサージ機器をアメリカから持ち帰ったが、これと同じ物をつくれる工場を探しているという情報です。「バイターがひと区切り」の頃です。早速、S医院を訪れ、試乗と機器の作動原理を長谷川さんと二人でスケッチしました。
長谷川さんとの関係は、当時アメリカで「ナイアガラ」という座布団の形をした回転式マッサージ器が爆発的に売れ、ミリオンセラーのときでした。「このナイアガラ・マッサージの日本総発売元にどうか?」と、ある商社が大島に商談を持ち込んできました。その商社の技術顧問が長谷川さんでした。ロット買い、金銭の先渡し、メンテナンス等の取引条件がネックとなり、ナイアガラの商談は成立しませんでした。
しかし長谷川さんとは馬が合うのか・・・。破談後も親密な付き合いが続き、オスピナは長谷川さん無くしては完成しなかったと思います。

 話はS医院に戻って、医院では夜8時に診療が終わってからの調査です。商品の現物は持ち出せないため、物差しと秒時計だけの測定です。
リバーサルシャフトの寸法がどうしてもとれないので、髪をシャフトに巻きつけて型をとり、後日会社で寸法をとりました。
減速比が刻印されていないので、回転数を数えるなど苦労して、終わったのは朝方でした。


                        思い出-2


(注釈)
昭和50年代、アメリカ製「ナイアガラ」という機器を売りながら、次に出合ったマッサージ器が、後に「当社の大きな柱」となるきっかけとなりました。

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思い出(5)

思い出-1

前回、バイターの販売が大島の一大転換期だと申し上げました。今回はそのことについて詳しくお話ししたいと思います。
まず、(バイター)総発売元の明光通商は、飯田橋のマンションの一室で、輸出業務にバイターを扱っていました(※現在は千代田区神田須田町にあります)。
バイターを国内向けに販売するについて、
第1に、その当時、販売戦略としては珍しいテリトリー制を敷きました。
売り先は医療業界と理美容業界に的を絞り、医療業界は東日本と西日本に分けてそれぞれ競争させる、というものです。
第2に、その当時、「売り手」と「買い手」の交渉で決めていた販売価格を統一したことです。末端価格39,500円で販売し、この価格はどこの販売業者から買っても同じとしました。
第3に、その当時、業界では考えもしなかったキャッシュオン・デリバリーによる支払いです。納品と同時に集金ですから、いくら多く売っても資金繰りの心配がない。
以上が(売買)契約の要点でしたが、バイターは飛ぶように売れました。
力士が接骨院に買いに来るので毎日4~5台届けたこともあります。驚いたのは毎日20~30台を売る販売店が現れたことです。しかも従業員はなし、夫婦二人での販売です。どこに売ったと思いますか・・・?
最初は企業秘密と医療業界以外のために教えてくれませんでしたが、正解は青物市場です。夜の明けぬうちから始まる青物市場の人達に実演販売を行っていたのです。

大島の本社は昭和48年建設ですが、バイターの販売から学んだ有形無形の恩恵があったことは確かです。バイターの成功は、商品の力より販売戦略の成功です。バイター販売以前の大島は、手作りしたものを自分の足で売って歩く、儲けを考えない非科学的な父ちゃん母ちゃん工業でした。
バイターの合理的、科学的な販売戦略を目の当たりにし、販売を実行するにつれて販売の重要性、販売の偉大性、「企業は販売なり」を心から実感しました。
さて職域販売、理美容業界の売上は、医療業界の売上げよりも何十倍という大きいものでした。

バイター

思い出-2


(注釈)
明光通商様とは今でも良好な関係が続いています。

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思い出(4)

思い出-1

昭和41年、(有)大島製作所設立当時の営業拠点は、江戸川区小松川3丁目のアパートの一室でした。
電話一本と女子事務員一人、営業は年配の坂倉さんと私の二人三脚です。助手席に坂倉さん、後部座席にハンディⅢ型(低周波1人、温熱1人)を積んでの飛び込みセールスです。東京および関東近辺の接骨院を訪問しましたが、商談できるのは昼の休み時間と夜、治療が終ってからでした。
売れるまでは帰らないをモットーの行商セールスです。

 千葉市桜木町の自宅に帰るのはいつも夜中過ぎでした。夜明けごろ家に着いて、家人が起きるまで車のなかで眠ることも度々でした。
当時の思い出は、新卒の南場さんをスカウトし、大阪から熊谷、表さん2人の若手が入社したこと。柔整師学校に学生が集まらないので、校長から頼まれて家内が無試験入学したこと。ある日、人相見に観てもらったらば、「あなたはコマの回転と同じで動いてバランスのとれる体質、止まってはダメ、動きに動きなさい。」と言われたこと。
しかし、いくら動けばよいといわれても、毎日東京と千葉の長距離往復。増えつづける千葉街道の渋滞。ついに耐えきれなくなくて、昭和46年、東京に事務所兼住宅を建設しました。今(当時)の「松江寮」です。

 自前の事務所が信用となったのでしょうか。一大転換期が来ました。
回転式マッサージ器バイターの販売です。バイターの発売元、明光通商の営業マンが、当社を尋ねてきました。接骨院の東日本の総発売元になって欲しい。
バイターは今までの指圧式マッサージと違って、パットが回転するため広い範囲に血液循環が改善するアメリカ式の特許マッサージ器です。しかも信用で保証金は不要とのこと、その場で承諾しました。
バイターは飛ぶように売れました。プロの販売員がつぎつぎと入社しました。最盛期には月に450~500台売れました。定価は39,800円。定価販売厳守が売買契約の条件です。

この夢のような時代が3年後の昭和49年の本社設立へとつながりました。


                  思い出-2

(注釈)
当時「バイター」を始め、足踏み用マット「ホスパーマット」などの商品が、接骨院や理美容店に多数売れました。
文章の内容は、当時の時代的・社会的背景も考慮して、原文のまま掲載しましたことをご了承願います。

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思い出(3)

思い出-1

「思い出」の第1回で電気式の温熱治療器(罨法器)が生まれるまで、のエピソードをお話しました。今回反省を込めて当時の状況を詳しくお話させていただきたいと思います。

 私は都立エックス線技師学校(東京都立医療技術大学の前身)を退職後、X線装置の修理・改造で独立し、栄和産業を通じて接骨院の先生方と知り合いました。
その後、少年航空隊が着用の防寒服がヒントとなり罨法器が世に出たわけです。
当時、文京区大塚の2間のアパートに住んでいましたが、6畳間の畳にビニールを敷いて作業場とし、罨法器を組み立てました。夜遅くまで電気ドリルで板金の穴あけ作業をしたものですから、2階の住人から「公害」だと文句を言われ、謝りながらも仕事を続けました。
 最初は家内と2人で始めました。昼はセールス、夜は機器の組立てと無我夢中の生活でした。秋葉原の電気店に特注の温床線を作ってもらい、帆布に縫い付け片面を毛布で反対側を綿布で挟み、これを布引きビニールで覆います。交流30ボルト程度のタップ式絶縁トランスで電圧調整を行います。
何しろ温度調整は温度=0.24×VItカロリーで決まりますから、温度は電圧だけの調整で自由に変えられます。操作は簡単で値段も安い。
今から見ればローテクの最たるものですが、手を真っ赤にしてタオルでおこなう「蒸し器式」の罨法からみればハイテクな温熱治療器だったのでしょう。評判が評判を呼び、注文は殺到して、作っても作っても需要に間に合わない状況でした。

 特筆すべきことは罨法器が接骨師の先生方に購入され、購買力が高まった接骨院回りの販売業者が大いに潤ったことです。今は亡き池田商事の社長から生前に、「儲けさしてもらいました。大島さんに足を向けて眠れません。」と過分のお世辞をいただきました。

罨法器の発売後、僅か3年後の昭和41年千葉市桜木町に80坪の土地を購入し、工場と事務所、自宅を建設することができました。名称も個人営業の「パール商会」から「有限会社 大島製作所」と改称し社会的認知の第一歩となりました。

罨法器の発売はそれなりに成功の第一歩となりましたが、冒頭の反省すべきことは次のようなことだったでしょうか。
①「特許申請をすべきだった。」
知人から特許申請を進められたこともありましたが、「これが特許になるなら、他にいくらでも考えられる。」と特許に対する考えが甘かった。
②「販売戦略がなかった。」
関東地区の直販に終始し、全国向けの販売組織をつくれなかった。
③「温熱治療の知識が無かった。」
当時の先生方は「他の有効な治療法がないので罨法でも・・・。」や「罨法器が治療器なら湯たんぽも治療器か」の偏見があった。私自身も温熱治療の生体に対する作用機序を知ったのは、後に灸の講義を受けたときでした。


M-1.jpg


              思い出-2

(注釈)
温熱治療器と低周波治療器は「エンブロケーターシリーズ」、そして現在は「オーゴスペルシリーズ」に、罨法器(磁気振動)は「ネオマグトロンシリーズ」へと受け継がれていきました。

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思い出(2)

思い出-1

前回「栄和号は、低周波治療器1基と、温熱治療としての磁気温熱器2基を備えた複合治療器」と書きましたが、もう少し詳しくお話しさせていただきたいと思います。

 超長波と呼ばれた磁気温熱治療器は、栄和産業の工場長が設計したものですが、そのルーツは名古屋の小林医療器です。
と言うのは、栄和産業の工場長が以前、小林医療器に勤務していたときに超長波製造技術を習得したからです。
8×10cm程度の珪素鋼板を3枚ほど重ねて綿布で固定してコアーをつくり、その上をエナメル線で絶縁紙を挟み4層まき重ねて超長波導子をつくります。
コアー作り、エナメル線巻きなどすべて手作業です。
超長波導子は2枚を1組として使用します。
この超長波導子の両端にAC100ボルトを5段階、50~80V程度に減圧して加えます。
超長波導子は2枚で患部を挟みゴムバンドで固定して用います。
磁気振動と心地よい温熱、ブーンといかにも効果のありそうな音で栄和号は確かに一時代を築いた名機だといえます。栄和号は関東地区を栄和産業が販売し、地方はミカサレントゲンを通じて販売し、特に九州地区によく売れた、と聞き及んでいます。

 超長波温熱器の泣き所は、温熱調節の問題です。
当時は温度センサーが市場にないため、温度調節はサーモスタットと、電圧だけ調節しなければなりません。電圧を高くするとワット数が増えて温度が高くなります。
高温は熱傷の危険があります。電圧を低くすると温度が下がると同時に、磁気振動も弱くなってしまいます。
サーモスタットで電圧が切れると、復帰するまでの時間中、余熱で温感はありますが振動は0となるので機器の故障と間違われました。

蛇足になりますが、「磁気治療器」は現在も新医療用具としての承認が必要です(※当時、現在は認証)。
超長波導子は磁気振動を発生しますが、ジュール熱を用いた「温熱治療器」です。
私も、栄和号の類似商品として「アネクサー」をつくり何台か販売しました。
製造して販売、修理に従事したのは、表(※OB)、熊谷(※現課長代理)、南場(※現課長代理)、という美少年3人でした。


             思い出-2

(注釈)
昭和30年代後半は、大島製作所の前身として、個人商店「パール商会」と命名していました。その後、千葉県千葉市桜木町に本社を、東京都江戸川区小松川に営業拠点を置くことになります。

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思い出(1)

大島会長より平成14年、社内報に寄稿された資料をご紹介させていただきます。
当社の歴史を知る一端となれば幸いです。

思い出-1

昭和36年12月の暮れも差し迫った、埼玉県、秩父山麓の御花畑駅から少し離れた、ある接骨院のできごとである。

飛び込みセールスマンとして私は、栄和号の売り込みに当たっておりました。
(栄和号:永和産業株式会社製造、本社東京都文京区本郷、真空管4本の低周波治療器1基と、磁気温熱器の原型で超長波と呼んでいた温熱器2基のついた低周波治療器)

商談は不発に終わり、話題は温熱治療器に移りました。
当時の温熱療法は、タオルを蒸し器に何枚か並べて60~70度に蒸しあげ、湯気の出ているタオルを折り曲げて患部に押し当て、上から冷めないように乾いた布を当て包帯で縛っていた。
この熱いタオルの手作業は、フーフーと息を手にかけながら、手を真っ赤にしてお弟子さんが行なっていました。

接骨院院長は、少年航空隊出身で終戦のとき防寒服を一つ記念に貰って秩父市に帰ってきたとのことでした。
電池式の防寒服を押入れから取り出して、これで温熱器を作れないかと依頼されました。
防寒服を切断して作った罨法器(あんぽうき)をお届けしたところ、院長からは大変喜ばれました。
この罨法器(あんぽうき)がその後、爆発的に売れるとはそのとき夢にも思いませんでした。


ホットパック


             思い出-2

(注釈)
大阪から上京しレントゲン会社でメンテナンス業務に勤めました。その後独立し一人で製造販売していた頃。東京都文京区大塚にある二間のアパートが、生活兼仕事場という状況でした。

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