思い出(3)

「思い出」の第1回で電気式の温熱治療器(罨法器)が生まれるまで、のエピソードをお話しました。今回反省を込めて当時の状況を詳しくお話させていただきたいと思います。
私は都立エックス線技師学校(東京都立医療技術大学の前身)を退職後、X線装置の修理・改造で独立し、栄和産業を通じて接骨院の先生方と知り合いました。
その後、少年航空隊が着用の防寒服がヒントとなり罨法器が世に出たわけです。
当時、文京区大塚の2間のアパートに住んでいましたが、6畳間の畳にビニールを敷いて作業場とし、罨法器を組み立てました。夜遅くまで電気ドリルで板金の穴あけ作業をしたものですから、2階の住人から「公害」だと文句を言われ、謝りながらも仕事を続けました。
最初は家内と2人で始めました。昼はセールス、夜は機器の組立てと無我夢中の生活でした。秋葉原の電気店に特注の温床線を作ってもらい、帆布に縫い付け片面を毛布で反対側を綿布で挟み、これを布引きビニールで覆います。交流30ボルト程度のタップ式絶縁トランスで電圧調整を行います。
何しろ温度調整は温度=0.24×VItカロリーで決まりますから、温度は電圧だけの調整で自由に変えられます。操作は簡単で値段も安い。
今から見ればローテクの最たるものですが、手を真っ赤にしてタオルでおこなう「蒸し器式」の罨法からみればハイテクな温熱治療器だったのでしょう。評判が評判を呼び、注文は殺到して、作っても作っても需要に間に合わない状況でした。
特筆すべきことは罨法器が接骨師の先生方に購入され、購買力が高まった接骨院回りの販売業者が大いに潤ったことです。今は亡き池田商事の社長から生前に、「儲けさしてもらいました。大島さんに足を向けて眠れません。」と過分のお世辞をいただきました。
罨法器の発売後、僅か3年後の昭和41年千葉市桜木町に80坪の土地を購入し、工場と事務所、自宅を建設することができました。名称も個人営業の「パール商会」から「有限会社 大島製作所」と改称し社会的認知の第一歩となりました。
罨法器の発売はそれなりに成功の第一歩となりましたが、冒頭の反省すべきことは次のようなことだったでしょうか。
①「特許申請をすべきだった。」
知人から特許申請を進められたこともありましたが、「これが特許になるなら、他にいくらでも考えられる。」と特許に対する考えが甘かった。
②「販売戦略がなかった。」
関東地区の直販に終始し、全国向けの販売組織をつくれなかった。
③「温熱治療の知識が無かった。」
当時の先生方は「他の有効な治療法がないので罨法でも・・・。」や「罨法器が治療器なら湯たんぽも治療器か」の偏見があった。私自身も温熱治療の生体に対する作用機序を知ったのは、後に灸の講義を受けたときでした。


(注釈)
温熱治療器と低周波治療器は「エンブロケーターシリーズ」、そして現在は「オーゴスペルシリーズ」に、罨法器(磁気振動)は「ネオマグトロンシリーズ」へと受け継がれていきました。
http://www.ooshima.me
スポンサーサイト